仏教と実業 (第26回一隅会より)

協和醗酵株式会社 会長
社団法人在家仏教協会 会長
加藤弁三郎氏 (当時の役職)

1972年8月19日、第26回一隅会においてご講演いただきました一隅会速記録をもとに、一部編集をしてお伝えいたします。
本講演内容は、ご自身の仏教とのかかわりをはじめ、仏念や在家仏教協会に関わる内容まで、実業と仏教のかかわりについて深い示唆を与えていただく講演内容です。

【第22回】5.念仏へ - (1)

 でございますけれども、どうも私の上司の野口喜一郎さんが南無阿弥陀仏をしじゅうおっしゃる。それから松原先生も、最後は念仏なんだと、こうおっしゃる。どうもそれがわからないんですね。仏教の本を読みますと、なかなか理路整然と書かれてありましてね、それはもうほんとうに、実に体系としては間然するところがない、完璧な思想体系をしておると私は思うのでありますが、それでよさそうなものだ。無我もよくわかればよさそうなものだと思う。そしてまた宗教というものは敬虔な心であるから、仏壇に手を合わせ、あるいは仏像に手を合わす。これはけっこうだ。それがやれればけっこうじゃないか。なにも南無阿弥陀仏と唱える、そういうことまでせんでもいいのではないかというので、そこでまたつっかえました。数年、仏教の本は読むんですよ。そうして、なるほど、なるほどとは思っておるんですけれども、南無阿弥陀仏ということが唱えられない。どうしてもそこの道理がわからない。ところが、いつの日か唱えておったんですな。これはいつであったかわかりません。私、いつから唱えたかぜんぜん覚えませんけれども、いつのまにか唱えちゃったんですな。唱えてから、だんだんとひるがえってみますと、これはたいへんなことなんです。なるほど、わかったって、念仏を唱えたって、浄土真宗をいくら論じておったって、そんなものは論であって、学者はそれでいいかしらんけれども、われわれ庶民がそれによって救われる、あるいは広い境地に出られるというものじゃなかったなあ。やはり念仏でなければいかん。ただ念仏、なるほどそのとおりだと、こうなったんでありますが、これは念仏を唱えてからのちの述懐でありまして、唱えるのは、もう自然に唱えさせられたのであります。