仏教と実業 (第26回一隅会より)

協和醗酵株式会社 会長
社団法人在家仏教協会 会長
加藤弁三郎氏 (当時の役職)

1972年8月19日、第26回一隅会においてご講演いただきました一隅会速記録をもとに、一部編集をしてお伝えいたします。
本講演内容は、ご自身の仏教とのかかわりをはじめ、仏念や在家仏教協会に関わる内容まで、実業と仏教のかかわりについて深い示唆を与えていただく講演内容です。

【第12回】1.伝教大師と山家学生式 - (12)

 実にどうも味わい深い言葉だと思うのでありますが、なおそのまえに、『願文』のところの終わりに、これはやはり伝教大師の非常な特徴、そしてここで日本の仏教が小乗から大乗に変わっていく。そして大乗とはなにものぞやということが、ここで非常によくわかりますので読んでみますと、これ、『願文』ですら、ずっと文句が続きまして、おしまいのところに「伏して願くは、解脱の味独り飲まず」仏教は解脱を求めております。生死解脱、これは仏教が究極に求めておるところのものでございますが、伝教大師は、その味、それはけっこうな味ですな、解脱の味は。解脱の味というのは、けっこうな味にちがいないんです。なんとなれば、仏教の求めておるいちばんの究極なるものがその解脱の味なんですから。ところが伝教大師は、その最上の味といえども「われ独り飲まず」。そんないい解脱の味をひとりで味わったってしょうがないじゃないか。大衆とともに味わわなければならない。こういうことなんです。そしてその次に「安楽の果独り証せず」安楽の果というのも、これも仏教の願っているところです。極楽と同じ安楽ともいう、心安らかなる果、つまり結果ですね、そういう境地であります。安楽の境地、これも独り証せず。証は悟るという意味でしょうな。仏教は安楽の果を求めているんだ。だが私は、自分一人でそんなけっこうな果を願わない。つまり自分一人でさっさと極楽へ行きたくない、こういうことですね。そして「法界の衆生と同く妙覚に登り」法界というのは法の世界ですが、この世もまたその中にあるのです。衆生、この世の人々、生きとし生けるもの、全部といっしょに同じく妙覚を悟る世界ですね。悟りの頂にのぼり、そして「法界の衆生と同く妙味を服せん」この世のいっさいの人々とともに妙なる味を味わいたい、これが伝教大師の願なんです。