日本の能率を築いた人びと

執筆者:社団法人日本能率協会常務理事 中嶋誉富(当時)
本記事は、1987年「JMAジャーナル」において連載されたものを編集して掲載しています。
記事中の役職名や数字などは当時の原稿どおりとしています。

小野常雄 日本能率協会に脈うつその思想 2

コンサルタント大増員計画にゴーサイン

 昭和20年の秋,まだ残暑厳しい頃,相変わらず事業縮小計画と職員の雇用対策の会議中に,塩野義製薬の塩野専務が上京,日本能率協会は今こそ日本産業の再建と復興のために全力を傾注すべきことを森川理事長に訴え,自社の支援を依頼されたことが契機となって,縮小計画を一変して,小野のいうコンサルタント大増員計画を理事長森川は熟慮して決定するのである。
 小野は,戦時中の堀米建一の長期生産技術者養成講座の卒業生や,かつての航空機などの軍需工場で能率改善に参加した会社の技術者などに働きかけて,日本能率協会のコンサルティング事業への参加を呼びかけた。これには戦時中から能率協会で改善活動に参画をしていた福田勇(宇野沢鉄工)や花田秀夫(日鉄八幡)の尽力も大きかった。
 このようにして集まったコンサルタント志願者10数名を中心に,取りあえず離陸するが,昭和22年からは小野が中心となり,かつての堀米建一の教育体系をベースに,小野流の長期生産技術者養成コース(略称P)の戦後第1回を東京の某自動車会社で行った。これには能率協会入職者(コンサルタント志望者)のほか,戦後の復興を願う一般企業の技術者も参加した。
実習中心の45日間の合宿によるIEコースで,食糧事情も生活環境も回復しない悪条件の中で,各回とも20〜25名ほどの人たちがまさに寝食を忘れて参加したのである。
 筆者も昭和23年,日立兵器(現日立工機)で行われた第3回の小野常雄最後のPコースに参加し,小野常雄の情熱と人柄に感激したものである。
 第4回Pコースからは,「工場改善の原点的志向」や「シングル段取」で有名な,昭和12年の第1回P卒業生の新郷重夫講師に交代するが,現在では小野常雄のPコースの生徒はほとんど残っていない。しかし,このPコースが今もコンサルタント養成の最初の基礎コースの1つになっている。

Mサイクル

 終戦を契機に,コンサルティング活動を自活自営の職業的事業集団に,そして組織的技術集団にと育て上げていくのが,当時の小野の目標だったが,はじめから簡単にはいかなかった。
 コンサルタントが一朝にしてでき上がるわけではない。また,当時はコンサルタントという言葉もほとんど使われておらず,個人ならいざしらず,それが職業的事業集団として組織的に経営することが可能かどうかは,日本ではまだ未経験であり,増員計画に応じて参画したメンバーとしても,自分が職業人(プロ)として,この仕事に適性があり将来ともやっていけるかどうかという自信もなかったが,小野は鉄道時代や工業協会時代に経験した山下流の相互啓発とリーダーシックを情熱と人柄でコンバインして,メンバーに影響を与えていった。この時小野は40歳であった。