日本の能率を築いた人びと

執筆者:社団法人日本能率協会常務理事 中嶋誉富(当時)
本記事は、1987年「JMAジャーナル」において連載されたものを編集して掲載しています。
記事中の役職名や数字などは当時の原稿どおりとしています。

小野常雄 日本能率協会に脈うつその思想 1

鉄道省苗穂工場でIEに関わる

 大正14年札幌工業を卒業した小野常雄は,国鉄北海道苗穂工場に技術員として就職する。この頃の工場で使われる図面はインチサイズの英語で書かれていた時代で,その工場の現場技術者として活躍することになる。
 当時苗穂工場は,単価請負制度が施行されていて,問題は山積みされていたが,工場管理の革新には,この請負制度の基本的改革なしには通れないという認識が高まりつつあった時代である。
 この改革の先頭に立って取り組むのが,3月号で述べた鉄道省工作局長になった山下興家である。山下は昭和3年,改革のための欧米視察を終えて,帰国後ただちに工場長会議を招集し,「請負制度の問題解決なしに工場管理なし,その工場管理革新のために,Time and Motion Studyをベースに全工場へのIE導入すること」を宣言し,各工場の専任技術担当者の人選と教育に取りかかった。
 小野はこの時,苗穂工場で選ばれた1人である。Time and Motion Studyを日本で初めて作業研究と訳して使ったのは山下だが,山下の考え方は,正しい作業時間を決める前には,作業を十分改善し標準化するためのMethod Engineeringが必要であることを強調し,現状の作業のままで時間を測って決めたり,過去の実績平均で決めるなどというのは正しい作業時間設定とはいえないと断言した。
 したがって専任技術者は,加工に必要な固有技術や各種作業要素を十分に理解し,作業の速さを見極める能力を身につけなければならない。それには十分な教育訓練が必要だということから,鉄道工作局全国23工場で約150名を越えるIE専門家を養成しようと力を注ぐのである。昭和3年欧米視察から持ち帰ったドイツ,アメリカの膨大な参考文献を工場別に課題設定して研究させ,研究報告を東京に集めて,山下自らの司会で,刺激的な相互啓発の場としての技術会議を演出したのである。

日本工業協会にスカウトされる

 小野はこういった鉄道工場の環境の中で“山下流”に育てられ,昭和10年山下の運営する日本工業協会に専属の改善技師として参画することになる。
 昭和初期の世界恐慌の影響を打開するために,昭和5年商工省に臨時産業合理局が設置され山下はその生産管理委員長に任命された。日本工業協会は,この施策を普及させるために山下が提案して昭和6年設立された商工省の外郭団体だった。山下は副会長として運営に当たるが,一般民間工場への普及定着化のためには,研究会や委員会の開催,資料布,図書出版,講習会,講演会等の事業だけでは不十分と考え,日本工業協会自体で個別の会社工場の問題点を診断し,改善を提案してその実施を支援できる専門の改善技術者(IEer=改善コンサルタント)を自前で持たなければならないと考えていた。その人材として,山下が国鉄時代に養成した150名の改善技術者のなかから最適任者として選んだ2人が,大井工場の堀米建−であり,苗穂工場の小野常雄だったのである。
 小野は国鉄時代から日本工業協会で山下の指導を受け,昭和17年からは日本能率協会へと引き継ぎ,戦後の日本能率協会運営のリーダーシップを取ることになる。
 もちろん当時の理事長森川覚三のもとでのことであるが,森川も後継経営者として常に小野の名前をあげて,われわれに説明していたことを今も思い出すのである。

戦後の日本能率協会の事業的離陸

 小野は戦時中昭和12年と16年の2回にわたり応召されるが,それ以外は,とくに関西地区で日本工業協会改善技師として工場診断や改善提案,研究会や講演会のリーダー講師などを務めた。また,日本工業協会時代の長期生産技術者養成コースの何回かを堀米とともに担当したり,日本能率協会になってからは,森川覚三と工場診断に飛び回って活躍した。しかし,終戦を契機に日本能率協会は商工省の補助金全額を打ち切られ,それまでの顧客であった軍需工場は閉鎖または事業・製品転換を迫られ,さらに日本産業の大多数は壊滅的打撃を受け,戦後の復興などまさに未曽有の危機からの脱出に懸命であり,日本能率協会も例外ではなかったのである。
 昭和20年8〜9月のまだ暑苦しい事務所での協会の経営幹部会議は,もっぱら事業の縮小計画と,その職員の雇用問題であったが,このときコンサルティング活動を事業として離陸させることを積極的に提案し,森川理事長に訴え続けたのは,他ならぬ小野常雄だった。材料も設備もないという当時の状況で,知恵と努力と誠意があればできる事業であったのである。
 小野は鉄道時代,山下からMethod Engineeringの重要性をいわれ,これを専門の職業とする時代が日本にもくるという話を聞き,また,翻訳出版されたばかりの上野陽一の『テーラー全集』を読んで,自分の人生を決めたという。
 したがって,終戦の廃虚から立ち上がるときの日本能率協会事業に,コンサルタント活動を事業とした職業集団への脱皮を考えたのは当然であったのである。しかもそれは,それまであった個人的な能率屋や能率普及者ではなく,改善技術,管理技術をシステマティックに組織化した技術職業集団としての事業への発展なのである。