日本の能率を築いた人びと

執筆者:社団法人日本能率協会常務理事 中嶋誉富(当時)
本記事は、1987年「JMAジャーナル」において連載されたものを編集して掲載しています。
記事中の役職名や数字などは当時の原稿どおりとしています。

堀米建一 IE普及に賭けた鬼 2

日本工業協会への転進

 昭和5年設立された商工省臨時産業合理局は,その外郭団体として昭和6年に日本工業協会を設立し,山下興家を中心にスタートさせた。
 山下は日本工業協会の運営には,講演会,研修会,出版などの啓蒙普及活動のほかに,当時の作業研究の専門家(IEer)を自前で持って,工場改善の具体的指導ができなければ駄目だと考えていた。その人選に,山下自らが,鉄道で育てた約150名の作業研究専任者(IEer)の中から,その第一人者である堀米建一を日本工業協会にスカウトするのである。
 昭和9年1月,堀米は印本工業協会技術部長として,工場改善の実施指導,および技術者に対する生産技術,作業研究,・IEの教育指導を担当することになる。34歳のときである。
 このとき堀米は,山下から日本工業協会の指導方針について次のようにいわれたことをもらしている。
 −−当時能率専門家といわれた人々の中には,個人で事務所を構え,数人の助手を使って仕事をされている人が多かった。俗にいう能率屋さんである。日本工業協会は,そういう人々の養成機関ではない。日本の工業の指導をやることで,無駄のない工場作りを実践的に産業界に伝えるための活動であり,教育であり,指導でなければならない。つまり個人的職業人(能率屋)の職務教育ではなく,本当の産業合理化をめざして,無駄のない作業作り,工場作り,会社作りを推進することで,そのための専門家養成であり,指導でなければならない。そして,その専門家は企業内に必要なのである。−−
 この山下理念に共感して,堀米は日本工業協会に入ったのである。IE専門家をいかに増やすか。
 日本工業協会の事務所は,はじめ大阪から始まった。やはり大阪は工場も多く,実践・実利的だからかもしれない。この3年間は,民間企業を対象に経営とは何かを大阪で勉強させてもらったと堀米はいっている。東京に呼び戻されて"いよいよ本番″。いかにして企業の合理化を進めるかという協会の運営方針を山下と検討したが,当時の日本工業協会の改善技術の専門家は堀米・小野の2名で,いくら頑張って工場管理を指導したとしても,日本の工業指導にはならない。そこでIE専門家の卵を大勢養成して,その専門経験を通じて能力向上を組織的に展開し,これらIE専門家を真に組織化することにより,日本の工業指導に当たるしかないと提案し決定されたのである。これは山下が鉄道の全国23の修繕工場でやった方法であるが,これを日本の民間企業全体に展開しようとしたのである。
 これが,日本で最初に具体化された2ヵ月の長期合宿のIE養成コースで,昭和12年9月,早大時代の学友が経営する宇野沢鉄工所で行われた第1回生産技術講習会(俗称IP)である。そして昭和19年3月までに12回を数え,参加講習生も一流会社の技術者を集めて500名におよんだ。
 このコースは,現場実習を中心にして, Process Analysisと, Motion Mindを徹底的にたたき込み,最後に工場診断ができるようにしたものである。さらに,本コースの卒業生のAdvanceコースとして,会社,工場をよくするためにいかなるアプローチをするか,経営実習モデルエ場として新潟の島本鉄工所が選ばれた。現場作業だけでなく,管理部門の仕事や制度改善,原価計算制度の立案まで行われ,日本の工場管理改善でのエポックを作ったのである。
 ここでの現場作業の技倆別作業分割が,昭和15年の飛行機工場のタクト作業編成の第一歩になったのである。そして,軍需品調達のための原価計算要綱の実務的研究の一部も,島本鉄工所での実習で行われた。
 堀米はこの島本の仕事をまとめる暇もなく,軍の強い要請で,飛行機生産の合理化指導に関係することになる。昭和16年4月,わずか10日間で飛行機工場の現場作業と管理制度についての工場診断を行い,これをデータに,陸海軍の監督官をはじめ,飛行機生産会社の経営幹部約100名の前で,3時間にわたり問題点と具体的改善案をまじえた改善方向を説明し絶賛をえた。
 これがキッカケになり,第8回生産技術講習会(昭和16年8月)以後の参加講習生は,航空機関係の会社工場が圧倒的に多く, 250名近くが参加した。