日本の能率を築いた人びと

執筆者:社団法人日本能率協会常務理事 中嶋誉富(当時)
本記事は、1987年「JMAジャーナル」において連載されたものを編集して掲載しています。
記事中の役職名や数字などは当時の原稿どおりとしています。

森川覚三 日本能率協会育ての親 4

ZD運動とMIC計画

 森川は,工場診断や改善活動は能率協会のコンサルタントが伺えば,一応成果は期待できるが,何百万とある企業・事業所にすべて伺うわけにはいかない。そのために講演,セミナー,研修会を通じてやる方法があるが,これらをもっと総合的に組織化した運動展開ができないかと思案していた。これを最初に展開したのが,ZD運動なのである。
 昭和40年,米国におけるZD運動の情報を得る。これこそ森川がそれまで考えていた企業ごとの改善自主活動であった。これには思想があり,しかも東洋的である。森川はなぜこれが能率協会から生まれなかったかを嘆いたが,日本電気の小林宏治社長が社内ではじめようとしていることを知り,急遽,小林社長に申し入れて,このZD運動の全国展開を能率協会が行い,日本電気にその実施モデル企業になってもらう。これが今日まで20年間続いているものだ。
 森川はこのZD運動の中に,東洋的思想と各企業の自主的改善運動の日本人的な特色と運動展開の真髄をみたのである。
 昭和41年,当時の不況から管理間接部門の効率化の気運が高まってきた。森川はかねてからホワイトカラーは3倍働ける,それができないのは,それぞれの幹部の考え方と組織風土や環境による。これを徹底的に改善して,管理者生産性3倍,ホワイトカラーのオフィス業務の総見直しをMIC計画(Management of Indirect CostのちにManagement for Innovation & Creation)として発表し,全国展開を推進するのである。これは今も続いて,ホワイトカラー生産性研究やKI計画に発展している。
 経営の中枢は経営者であり,この人々の経営哲学と,それの従業員への浸透が問題である。今の経営者は明確な経営哲学があり,信念をもってそれを,部下従業員に徹底しているであろうか。森川はこれぞ最後の仕事と思い,トップマネジメント・フィロソフィー研究会として一隅会(伝教大師の言葉の“一隅を照らすものこれ国宝なり”からとった)を昭和45年設立した。宗教家,思想家,すぐれた経営者を囲む講話研究会が行われ現在200回に近づこうとしている。
 日本の高度経済成長が反省期に入った昭和47年であるが,森川は今後の世界経済に重要な役割を演じ,貢献しなければならないのは,日本,西独,米国の3国で,このマネジメントの正しい発展こそ,世界人類に貢献するものとして,第1回目の日,独,米3国マネジメント・シンポジウムを日本で開催し,これを能率協会30周年記念事業と結び,30周年宣言を発表した。その中に,今後の経営理念哲学の開発と,自然科学と精神文化の調和を強調するものがある。そしてこれが,森川の経営能率に賭けた最後の花道となろうとは夢にだに思わなかったが,昭和49年,78歳の生涯を終えるのである。

  • 参考文献
  • 『森川覚三の世界』日本能率協会
  • 『能率協会10年のあゆみ』日本能率協会
  • 『経営と共に』日本能率協会

文中敬称略