日本の能率を築いた人びと

執筆者:社団法人日本能率協会常務理事 中嶋誉富(当時)
本記事は、1987年「JMAジャーナル」において連載されたものを編集して掲載しています。
記事中の役職名や数字などは当時の原稿どおりとしています。

森川覚三 日本能率協会育ての親 3

戦時中の活動

 両団体の業務を引きついで,能率に関する研究会,講演会,全国大会などのほか,工業規格,航空規格などの委員会,規格類の出版,パンフレット,図書,雑誌の発行などを行っていたが,森川の主力は,講演および工場診断,改善調査,いまでいう工場管理コンサルティングであった。
 当時は戦時中だし,鉄の生産は粗鋼450万トン程度で,その増産は国家の最重点課題で,能率協会初仕事は,まさに日鉄釜石製鉄所の4割増産からはじまって,岸大臣からも現地に感謝状が送られた。以後,輪西,八幡,日本鋼管などにも広げられ,昭和18年には豊川海軍工廠の初期の25ミリ2連式高射機関砲の増産に取り組み,作戦命令による目標の170%を達成し,生産の初期段階に比べると何と37倍という増産を記録したのである。
 これらの活動は,日本工業協会時代から続いていた,一般企業の技術者を集めた長期生産技術者養成講座(現在のIE士補養成コース)の卒業生を動員して助手になってもらい,森川はじめ,能率協会の専門改善技師(当時堀米建一,小野常雄)が班長になって,その対象工場の技術者,管理者と協力して実施したが,この工場と一体になってコンサルティングする伝統は,今も続いている日本能率協会コンサルティングの特徴といえる。

敗戦直後の混乱期

 昭和20年の敗戦によって能率協会は一大転機を迎えることになった。従来の顧客はほとんど軍需工場で,コンサルティングサービスは無償提供,協会の収入は商工省の補助金でまかなわれていた。平和産業への有料サービスという転換を余儀なくされ,さらに会長,伍堂卓雄は戦犯容疑で巣鴨に入ってしまい,当時100数十名の職員がいた組織の経営はまさにお先真っ暗! 日本自体もどうなるかわからないという壊滅的荒廃と経済恐慌の中で,その再建をいかにするかと森川は悩んだ。日本規格協会を新たに作って職員を派遣するなど,もっぱら縮小計画審議の毎日が続いた。
 ある日のこと,またしても事業の縮小と職員削減の会議をしていたところ,塩野義製薬の塩野専務が訪ねて来て,「製薬業界に課せられた使命を思うとき,一日も安閑としてはおられない。一日も早く本来の生産業務に立ち返り企業の合理化,科学化を実施したい。それにはこちらの力が欲しい。ぜひ応援してくれ」といわれたのである。
 森川はこの塩野専務の言葉に強く打たれて,会議を中止し,夜がふけても1人で沈思黙考,遂に決断した。「能率協会は,今こそ日本のこれからの産業の再建と復興のために全力を傾注すべきで,もし能率協会がその期待に応えられるよう能力を身につけ努力し成果に結びつけることができるならば,必ずや産業界はわれわれの存在を認め,活用してもらえ,発展を支持してくれるはずである。どうすればそれが可能かを考えることこそ能率協会再建策でなければならない」と決心し,翌日の役員会に説明し,すぐさま当面の補助金打ち切りの資金対策と,コンサルティング事業化のための能率協会再建策を携えて関西に下り,10数社の企業トップを訪ねて腹を割って話し,懇願したのである。
 能率協会はここで職員の減員計画から一変して,コンサルタント大増員計画がはじまる。昭和20年秋頃から,戦時中の長期生産技術者養成講座の卒業生や,かつての軍需工場で能率改善に参加した陸海軍技術将校や技術者が集まり,昭和21年からは,小野常雄を中心に戦後の長期生産技術者養成コースを再開して,コンサルティング事業の離陸と充実を図るのである。