日本の能率を築いた人びと

執筆者:社団法人日本能率協会常務理事 中嶋誉富(当時)
本記事は、1987年「JMAジャーナル」において連載されたものを編集して掲載しています。
記事中の役職名や数字などは当時の原稿どおりとしています。

森川覚三 日本能率協会育ての親 2

内閣企画院第7部長に就任

 時の近衛内閣は国家の総力を結集するために,総理大臣直轄の政府立案と各省調整のために内閣企画院を設置したが,その中に科学技術の国家的総力動員のために科学部が新設され,企画院第7部として発足させた。ドイツ通ということが機縁となって,部長として森川が就任するのである。そして科学部は,国家総動員法により,各省の研究開発命令の総合調整や,研究物資不足の対応立案,さらに強力な科学技術の促進とその活用を図る「科学技術新体制要綱」の作成を担当することになる。
 この成果が科学技術の総合行政機関として,昭和17年1月内閣技術院の設置になるが,まさに森川の1年有余の苦闘の所産なのである。そして,その2ヵ月前に日本は大東亜戦争に突入していたのである。
 森川は自分が作った技術院にとどまることを潔しとせず,古巣の三菱商事にもどっていくが,もどっても天下国家を論じてきた森川には,日常的な商事の仕事が手につかず,休暇をとって京都の古寺散策にしばしの時をすごすのである。
 2週間もして東京に帰ろうとした矢先に,京都府知事から電話が入り,「至急東京に戻られたし」との連絡があった。
 東京につくや,椎名悦三郎商工次官からの電話で,「明日神田一ツ橋講堂に出頭されたし」という。いったい何事が起こったのかといぶかった。

日本能率協会の創立

 一ッ橋講堂は日本能率協会創立総会の会場で,昭和17年3月30日であった。参会者1,000名を越え,官民の祝福と期待のうちに,日本工業協会と日本能率連合会を統合一元化して,より強力な能率推進団体として日本能率協会を発足し,名誉会長岸信介商工大臣,会長伍堂卓雄,理事長森川覚三,役員顧問は現職大臣を含む政財界の大物70余名という物々しい出発である。
 当の森川はまったくの寝耳に水,経過も知らされず,岸商工大臣と伍堂卓雄に口説かれて理事長にさせられたといっている。 
 しかしここには満州時代の岸・伍堂との出会いの縁と,ドイツの経済復興と産業合理化に対する森川の見識,そして企画院第7部長の業績,さらにはアメリカ式科学的管理法とドイツ流企業経営の日本的統合などが森川に期待されての人事であっただろうことは十分にうかがえる。
 日本工業協会の山下興家の流れと日本能率連合会の上野陽一の流れとを統合するのは,戦時下といえども大変なことで伍堂卓雄しかいない,そしていずれにも偏せず,しかも伍堂が信頼できる理事長人事は満州以来の森川しかいない。森川ならば,陸海軍をはじめ各省庁にも知名度があり,彼ならできるということで,この人事は決められたものと思う。
 この設立総会に伍堂会長に次いて森川理事長が挨拶した。「本日の意義深い日に,礼服着用の皆様の前で私一人背広姿で御挨拶するこの珍景奇景がすべてを物語っています。私は今の今まで日本能率協会理事長など夢にも考えたことがありません。能率には興味はありますが,知識も経験もありません。私個人はどうなってもよいが,この重大な使命を果たせるようどうかお助け下さい。私は捨身でかかっていく決心です」と述べ,身分は三菱社員,職分は日本能率協会役員理事長としてスタートすることになった。