日本の能率を築いた人びと

執筆者:社団法人日本能率協会常務理事 中嶋誉富(当時)
本記事は、1987年「JMAジャーナル」において連載されたものを編集して掲載しています。
記事中の役職名や数字などは当時の原稿どおりとしています。

森川覚三 日本能率協会育ての親 1

 昭和17年3月,森川覚三は日本能率協会創設と同時に初代の理事長になり,昭和32年には会長に就任した。戦中,戦後と激動の30余年を経営者として日本能率協会を育ててきたが,いつも運命の中に彼岸を求めて行ずる,特異な行動派経営者であったように思う。

飛行機屋をめざしたが

 大正10年京都帝大工学部機械科を卒業した時,親友と語り合って飛行機屋になろうと決心し,その友は川崎航空機,森川は三菱航空機を志望したという。一生をかけてよい飛行機を作る競争をしようとまで約束したが,森川は就職内定後,なぜか三菱商事本社に配属されることになる。京大の機械卒で商事会社とは,まったくの畑違いと思い憤怒するが,慰められて三菱商事に入ってみると,三菱商事の当時の機械部は三菱系の電機,鉱山,造船などの技術者を集めてできたばかりで,三菱商事子飼いの社員は,このとき入社した森川を含む3名がはじめてだったという。結局,森川は自分の意志ではなく三菱商事に入社したのである。
 しかし,負けず嫌いの行動派森川は,飛行機のことはさらりと捨てて,商事の仕事に新たな目標をかかげて挑戦することになる。2年あまりの本社勤務後,大正12年27歳で満州大連支店に機械係主任として赴任することになる。

3年間で売り上げ20倍を宣言

 当時の大連は,為替差益などもあって給与は非常によかったが,機械系の売り上げは,なんと機械係の人件費総額を下回っていた。同業のトップは三井物産で,三菱商事はなんと第6位でしかない。「こんな馬鹿なことがあるか!」というわけでそこに赴任間もない森川は,いろいろ調査して,3年以内に三井に次ぐ第2位までになろうと提案した。それには 売り上げを今の20倍にし,半期で600万円にしなければならないと説明したが,そんな夢みたいなことができるわけがないと全員の反対にあう。「よろしい,それなら半分の300万円を君たち全員で売ってくれ。残り300万円は俺1人で売ってみせる」と宣言して皆を説得したというのである。
 当時,大連支店の機械系の唯一最大の顧客は南満州鉄道で,苦闘の末,ここの撫順炭鉱の露天掘りに使う電気ショベル売り込みに成功し,2年半で600万円,売り上げ20倍を達成するのである。
 その後森川は,昭和3年にベルリン支店に転勤を命ぜられ5年ほど勤務して,再び大連支店に機械課長としてもどってきた。ベルリンに立つ前には,三井に次いで第2位まで売り上げを伸ばした三菱商事も,グングン仕事が減りはじめ,その建て直しのため呼びもどされたのである。
 この失地回復と新規開拓に執念をかける森川に新たな縁が芽生えてくる。それは,当時,満鉄理事で鞍山製鉄所の所長であった伍堂卓雄が新しく昭和製鉱の社長となり,大がかりな設備投資をすることになったのである。この伍堂との出会いから,三井のデマッグと三菱のクルップの受注合戦がはじまり,それに執念の勝利をおさめて,再び大連三菱商事の名誉を取り戻すことになるが,この伍堂との縁が,のちの日本能率協会創立時の会長と理事長の緑につながるのである。
 昭和8年,2度目の大連支店勤務になった頃,満州国ができあがり,関東軍が満州に根を下ろすようになるが,この関東軍の高官が,三井,三菱を国賊よばわりしたことに憤慨した森川は,関東軍に乗り込んで,その態度の変容を訴えた。しかし,これが縁となって,当時の蒙古軍の反乱をしずめる関東軍の熱河作戦に必要な,砂漠に強いトラックの調達問題に関わることになる。
 イタリアがエチオピア作戦で同じ経験をして成功したイタリア製のトラックの調達輸入を,満州大豆の青田買いより先の先物買いでバーター取引でやるという,まさに命をかけた極秘潜行の大仕事であった。
 そして,このときの森川のファイトと英知と綿密な計画的行動力は,当時の三菱商事の資本金の2倍を越える取引を成功させる。海外支店の一課長としてはケタ違いの大仕事であった。

ドイツ通森川の面目

 昭和13年からはベルリン支店長として2回目のドイツに駐在赴任する。もちろん商事としての仕事が第一義であるが,森川はドイツの第1次大戦後の急速な経済復興と産業合理化に注目し,三菱商事にあって「ドイツにおける企業合理化」を報告し発表している。森川は企業経営という側面から,この「ドイツの経済復興と産業の合理化」の動きに大きな関心をもって調査し見守っていたのである。
 昭和13年,2度目のベルリン支店長として赴任して1年半たった時,ドイツ軍がポーランドに侵入することになる。ドイツ経済とヒトラーの動向を見守っていた森川は,「これは世界大戦になる」と判断し,独断でベルリン支店を閉めて,社員とその家族を連れて日本に引き揚げてきた。社員家族には喜ばれたが,本社ではびっくり仰天! 判断は正しく一刻を競うとはいえ,勝手な帰国なので,その後の仕事は沙汰待ちになるが,その間方々から頼まれて,「ドイツ事情とその問題」の講演をし,ラジオ放送にまで登場しでドイツ通の森川″になっていった。
 昭和15年には東京から大阪,そして満州新京まで講演に歩き,会場はいつも超満員だったという。そして,新京からの帰り道に下関で独ソ開戦を知るのである。
 講演して歩くことは本務ではないし,時間不足で聴衆の質問にも十分答えられないことなどを配慮して,本を出すことを思い立ち,昭和15年9月に『ナチスドイツの解剖』を出版,文部省不足の推薦図轡としてまたたくまにベストセラーになるのである。