日本の能率を築いた人びと

執筆者:社団法人日本能率協会常務理事 中嶋誉富(当時)
本記事は、1987年「JMAジャーナル」において連載されたものを編集して掲載しています。
記事中の役職名や数字などは当時の原稿どおりとしています。

上野陽一 民間能率界の先達 4

東洋思想への接近と能率道

 上野はテーラーのいう科学的管理法と,仏教や儒教でいう中道や中庸の考え方を結合し融合しようとしていた。
 科学的管理法でいうタスク(課業)は,「持ち前」を求めて発見しようとする過程に得られた現在の期待のことで,実施可能な現状の標準作りの結果なのである。この意味では彼岸を求めて行(ルビ:ぎょう)ずる仏道に通ずるものとして,能率は単なる率(out put/in putのRatio)を追うような効率的な考え方から,「能率道」という人間としての道であると説いたのである。そして月刊誌『オチボ』は日本能率学校創設の昭和17年に『能率道』と改題された。
 終戦後には,『誰にもわかる般若心経』をあらわし,仏教における「離辺中道」(両極端を離れて中道に帰す)が仏道の本質であり,これを能率でいうならば,「ムダをはぶき,ムリをとりさり,中庸を守って中道を歩む」ことであると説いている。

戦後の上野と創造性開発

 戦後の活動としてGHQと日本政府からの要請で,昭和21年日本の官吏制度を根本的に改革するため,国家公務員法により行政調査部に臨時人事委員会をつくり浅井清,山下興家,上野陽一の3名が後の人事院トップとして人事官に就任することになるが,40年を越える上野の実績がアメリカからも日本政府からも評価されたもので,このとき64歳であった。
 その後も日本能率学校再開(昭和21年),産業能率短大の設立(昭和25年),全日本能率連盟の結成(昭和24年),日本経営士会の設立(昭和26年)に貢献し,その要職につき能率活動も一応の完成の域にあったが,上野はまたまた新しい課題に取り組みはじめていた。
 昭和30年頃のことである。それは「独創性の開発」で,一般啓蒙書と専門書をつぎつぎと出版するが,「問題解決のための科学」,さらに創造性開発というテーマこそは,「人間とは何か」に迫る上野の最後の間であり,解答でもあった。
 そして,これまでは何でもアメリカ管理技術の翻訳紹介時代あったことから,日本の能率観を,アメリカに輸出することができるときがきているのではないかと主張するが当時の日本はアメリカ管理技術花ざかりのマネジメント・ブームで,その課題に取り組みつつも遂に果たせずして,昭和32年10月,74歳の生涯を終えるのである。

  • 参考文献
  • 『上野陽一伝』産業能率短大編 1967年
  • 『上野陽一 人と業績』斎藤毅憲 産業能率大学 1983年
  • 『IE』誌 日本能率協会 1967〜1968年 上野一郎