日本の能率を築いた人びと

執筆者:社団法人日本能率協会常務理事 中嶋誉富(当時)
本記事は、1987年「JMAジャーナル」において連載されたものを編集して掲載しています。
記事中の役職名や数字などは当時の原稿どおりとしています。

上野陽一 民間能率界の先達 3

日本能率連合会の発足

 能率研究とその実践を目的とする能率研究会や協会団体が,各地に設立されてくるのが大正11年頃からで,東京はもちろん大阪,神奈川,浜松,愛知,愛媛,兵庫,満州……など代表的な活動が展開されるが,昭和の初期にはほとんどの府県に設立されるようになる。しかし,その設立に直接,または間接に貢献したのは上野であるといってよい。
 昭和2年には,わが国産業能率の増進および各地能率団体,研究会の連絡・統一を目的にして,日本能率連合会を発足させ,これらの団体の全国的連合体をつくり上げ,間もなく理事長に就任するが,これぞまさに「民の上野」といわれるゆえんである。
 上野はこのような専門団体は,会員相互の協力によって能率研究を積極的に促進するとともに,自主的にこの分野を社会にとって有用な専門的職業に仕立てていくことを意図して,月刊誌『産業能率』を発刊し連合会の発展に尽力,実質的なリーダーシップを発揮した。
 このほか,国際的にも昭和4年,科学的管理国際委員会大会(CIOS)に連合会の代表として出席し,昭和5年にはテーラー協会本部の招待により,アメリカ産業視察団を編成し団長として内外に活躍するが,帰国後,『テーラー全集』の刊行を企画して昭和7年に出版,昭和10年には,日本の事情を土台にした,日本のための科学的管理法をめざして『能率ハンドブック』の企画に取り組み,昭和16年完成までに7年間を要した労作を出版するが,いずれもわが国の経営能率史上極めて貴重な資料をなすものである。そして,伍堂卓雄,山下興家もこの『能率ハンドブック』には序文を寄せて賛辞を述べている。
 しかし,こうした中にも,わが国は次第に戦時色を深め,軍や政治の力が大きくなるという事態に,昭和8年連合会理事長を辞任して,専門家の養成や,教育に重点を志向するようになり,日本産業能率研究所も借用していた芝公園の協調会会館から自宅に移した。そして,日本能率学校の構想と,その実現に力を傾注することになるのである。
 戦時中の強い国家要請が続いて,昭和17年3月には日本能率連合会と前号で述べた日本工業協会が統合一本化され,日本能率協会の発足をみるのである。
 しかし上野は,同年4月,東京等々力の地に日本能率学校を設立し,現在の産業能率短期大学,産業能率大学の前身をスタートさせることになる。そして新しく発足した日本能率協会は,会長伍堂卓雄,理事長森川覚三の線で進むが,上野はこれに評議員として参画した。

独自の能率概念の具現

 昭和10年,上野は『オチボ』という月刊雑誌を日本産業能率研究所から創刊したが,この11年2月号に全面を使って,「能率とは何ぞや」という上野の考え方を発表している。
 そして,これにはその後の産業能率論,経営学の基礎が展開されているのである。

(1)能率とはいかなることか?
 能率とは目的に対してもっとも合理的な手段が与えられた状態をいうのである。目的より手段が大きすぎれば「ムダ」であり,小さすぎれば「ムリ」である。

(2)誤った能率概念
 能率とは目標のない努力を強制するものではなく,余計に多くをやることが能率ではない。能率は増進すべきものではなく,達成すべきもので,出来るだけ主義ではなく,これだけ主義なのである。

(3)能率の観念は東洋的な宗教道徳と根本は同じである
 「ムリ」もなく,「ムダ」もなく,いずれにも偏らないのが能率である。すなわち,能率の根本原理は,孔子の中庸,釈迦の中道の教えと一致する。

(4)科学的管理法とは,中の道(標準)を発見してこれを実施する方法である
 すべてのもの(経営資源)が,その「持ち前」を100%に発揮することが能率であり,その「持ち前」を発見して,過程(プロセス)を明らかにする研究が,科学的管理法なのである。

(5)科学的管理法を行う順序には3つある
 第1段階:計画……標準を作ること
 第2段階:実施……実行すること
 第3段階:統制……標準に照らして実施を制御すること

(6)経営に当たる人に告ぐ。いたずらに大きくする野心を捨てよ/大きくなることよりも,全体のつりあいを取れ!!(何か今の世の中を予測しているような気がする)さらに昭和14年に述べられた「能率の根本原則」には,「ムラ」という概念をつけ加えて,能率研究とは「ムリ」,「ムダ」「ムラ」の3ムを征伐して,正しい道を追求・発見することであるといっている。