日本の能率を築いた人びと

執筆者:社団法人日本能率協会常務理事 中嶋誉富(当時)
本記事は、1987年「JMAジャーナル」において連載されたものを編集して掲載しています。
記事中の役職名や数字などは当時の原稿どおりとしています。

上野陽一 民間能率界の先達 2

翻訳的文献紹介から工場能率の実践的改善へ

 この早大商科における講義が1つの縁で,上野はライオン歯磨本舗の広告部長に社内教育を頼まれることになった。それが一段落したとき,次は工場能率の勉強をさせてもらいたいと頼み,それが許されて粉歯磨の袋詰工場の作業改善に取り組むことになる。大正9年(1920年)36歳のときである。これまで,書物の上ではいろいろと勉強しているが,これを実地に行って実際の能率改善に結びつけたことはなかったのである。
 女子作業員を前にして,はじめてストップウオッチを持ったときの心のときめき,まだ流れ作業などという言葉も使われていなかった当時,新しい流れ作業編成を明日から実施するときの不安に,前の晩は眠れなかったというが,苦労の甲斐あってこれが大成功をおさめるのである。
 上野は女子作業員15名を対象に,ストップウオッチによる標準時間を算定し,流れ作業的に配置を変更し,休憩時間を10時と3時に15分ずつ設け,昼休みを45分,それに終業時間を30分繰り上げて,1日の実働時間を1時間短宿して,しかも1日の生産量20%アップ,半製品減少を含む所要面積30%節約に成功したのである。
 そして彼は,このような能率研究によりもたらされる利益を,経営者,消費者,労働者,そして能率研究のための費用に配分すべきことを強調して提案したのである。まさに日本におけるマネジメント・コンサルタントの先駆的な姿をみる思いがする。
 翌大正10年(1921年)大阪商工会議所主催の「工場管理法講習会」には,このライオン歯磨の事例を図表にして説明し,当時の大阪商工会議所副会頭中山太一に感銘を与え,これが縁となって,中山太陽堂(クラブ化粧品),福助足袋などのコンサルティングがはじまり,実績を通じて啓蒙普及し,工場能率の改善実施時代へと発展していくのである。
 そして,この大阪の地は,上野を科学的管理法の翻訳的知識段階から本格的実践推進者へと育て上げていったのである。とくに大阪造幣局では臨時能率課長として職制に入って,大正14年から月平均3日間勤務であるが,数年間を実業実践の中に過ごすのである。
 とくに中山太一の理解と支援は,上野の産業能率の実践研究の上に大いに貢献したといわれている。

協調会産業能率研究所の設立

 協調会というのは大正8年(1919年)第1次世界大戦直後から急激に発展してきた労働運動に対処するため,渋沢栄一,徳川家達などが発起人となって,半官半民の超階級的機関として,労使の協調融和を図るための調査研究機関として設立された財団法人である。
 実は大正8年(1919年)にILO(国際労働機構)が設立され,日本も工業化の進展に合わせて,同年ただちに加盟したが,協調会が設立されたのはまさに同じ年なのである。
 「協調」とは,単に物事を裁判的に話し合うことではない。労使が得た利益を記分することを考える前に,その利益をもっと増大するにはどうすべきなのかを考えることが必要なのであり,そりためには,科学的管理法の考え方を研究普及することが必要である。
 労使協調の基盤は,工場の能率向上にあるとして協調会の中に産業能率研究所設立を準備し,その所長に上野陽一を内定したのである。協調会はこの設立準備を進めるとともに,農商務省に働きかけて,上野を欧米の工場視察研究に派遣し,その帰国を待って協調会産業能率研究所所長に任命した。大正11年,39歳のときである。
 労使問題は法律問題であるより,企業経営上のマネジメント問題であるとの認識でスタートしたものであることをとくにつけ加えておきたい。
 しかし,大正12年の関東大震災を契機に,これが閉鎖されることになるが,上野はその後,この業務を引きついで,大正14年日本産業能率研究所を協調会館内に開設し,能率に関する研究,出版,講演,講習,相談,診断,そして訓練と教育をその活動内容としたのである。