日本の能率を築いた人びと

執筆者:社団法人日本能率協会常務理事 中嶋誉富(当時)
本記事は、1987年「JMAジャーナル」において連載されたものを編集して掲載しています。
記事中の役職名や数字などは当時の原稿どおりとしています。

上野陽一 民間能率界の先達 1

 「軍の伍堂」,「官の山下」,「民の上野」といわれた能率界の3先達の1人,上野陽一について,その業績と思想を探ってみよう。
 上野陽一は明治41年(1903年)東京帝国大学心理学科を卒業,同文館に入って,翻訳,編集,執筆などを通じて活躍し,大正初期には心理学者としても知られた存在だった。
 しかし,抽象的な理論をもてあそぶことを好まない上野は,実験心理学,広告心理学,適性検査と,心理学そのものよりもその応用分野の研究に進み,次第に能率研究へと発展していったのである。
 心理学は人間行動の学問であり,能率は人間行動の状態研究である。心理学者上野は,とくにこの面でアメリカのF.B.ギルブレスの動作研究にひかれ,テーラーの科学的管理法に強く共感するが,テーラーはすでにこの世を去っていた(1915年)。しかし,ギルブレス,エマースン,バース,ハタウェイなど科学的管理法の推進者と深く接触して,この研究とその日本産業への導入に挺身することになる。
 当時,この科学的管理法の普及活動のことを能率運動と呼んでいたが,これは,エマースンなどがとなえたEfficiencyの訳語で,能率という言葉自体は誰が作ったのかはよくわかっていない。
 しかし,上野はこの能率の啓蒙普及者であり,マネジメント・コンサルタントであり,著述家であり,教育者であり,思想家でもあったといえる。
 戦後さまざまな管理技術の手法や考え方がアメリカから導入されたが,それが当時の日本産業の条件や風土の中に適合して効果をあげることができた1つの要因に,大正初期から昭和にかけて存在した,科学的管理法やIE(Industrial Engineering)の考え方やその実践があったといえる。そして,それはまた,改善革新を追求してやまない日本的な能率の思想と,その運用ではなかっただろうか。ここに,能率界の3先達で,「民の上野」といわれた輝かしい面目があるのである。

産業能率研究へのきっかけ

 心理学者としての上野は,前述のように理論研究より応用研究に関心を示しそれが産業能率の分野に発展したが,その具体的な起因は明治40年前後に彼がまだ大学在学中,アメリカの雑誌で,人間の動作を写真にとって研究するというやり方の記事をみて,大変興味を覚え,Motion Studyの創始者であるギルブレスに直接手紙を送ったことにある。以後文通を重ねて親交を深めていったが,とくにギルブレス夫人が心理学者であったことから,夫人は上野に多くの資料を送り,上野はそれを駆使して,大正8年(1919年)同文館から『人および事業能率の心理』を出版する。もちろんその中で動作研究も紹介したのである。
 さらに上野が農商務省の命で大正10年(1921年)欧米視察に出かけたときには,ギルブレスに連絡して会っている。
 そして,シカゴで行われたIE (The Society of Industrial Engineers)の大会では,ギルブレスが上野に「日本の能率運動」についての話をさせ,この会の趣旨に賛同する日本からの最初の客員委員上野陽一を迎えたことは大変力強く大いなる喜びである,と賛辞を惜しまなかったのである。そして,大正13年(1924年)ギルブレス死後も,ギルブレス夫人との交友が続いた。
 もう1つのきっかけは,同文館の雑誌『実業界』の臨時増刊にScientific Management特集があり,その主幹の井関十二郎に依頼されてこれに関係するに及んで,科学的管理法や,その創始者F.W.テーラーに対する興味と関心が急速に高まった。時あたかも大正初期(1912〜1913年)のことで,池田藤四郎の『無益な手数を省く秘訣』や星野行則の『学理的事業管理法』など,科学的管理法に関する本がどっと出版された時期である。
 そしてギルブレスの動作研究も,この科学的管理法の一連のものであることを理解し,ますます興味を覚えて,一生をこの能率研究に捧げることになる。
 さらにもう1つのきっかけを,子息である上野一郎(現産能大理事長)は,父陽一が大正5年から早稲田大学の広告研究会の講師を務め,大正8年には早大商科の正規カリキュラムとして広告心理学を担当することになったこととつけ加えている。
 こうして,理論より実業に役立てることを趣旨とする上野心理学は,企業経営としての産業能率研究へと進んでいくことになる。