日本の能率を築いた人びと

執筆者:社団法人日本能率協会常務理事 中嶋誉富(当時)
本記事は、1987年「JMAジャーナル」において連載されたものを編集して掲載しています。
記事中の役職名や数字などは当時の原稿どおりとしています。

山下興家 日本能率協会の伝統底流を築く 4

能率界の2大団体統合 一本化の動き

 昭和2年に結成された日本能率連合会と昭和6年4月設立された日本工業協会とを統合一本化し,戦時中の強力な推進を期待されて日本能率協会が設立されるのは,昭和17年3月である。この10数年の間日本産業は,昭和初期の不況,世界恐慌,政府のデフレ政策を経て満州事変,日中戦争,第2次世界大戦,大平洋戦争へと進み,自由経済の原則は戦時必要原則の統制経済へと切り替えられていった。
 日本工業協会も,設立当初から6年間は合理化に熱心な工場の多かった大阪に事務所をもっていたが,昭和12年事務所を東京に移し,臨時産業合理局も商工省統制局へと変わっていった。
 前号で紹介した伍堂卓雄も,昭和12年林内閣の商工大臣兼鉄道大臣に就任したこともあって,日本工業協会会長に就任している。
 このような戦時挙国一致体制の気運は,当然能率界にも及んで強力な一本化要請となり,とくに商工省の外郭団体であった日本工業協会の山下にもその話は持ち込まれ,日本能率協会設立準備に参画した。
 しかし,もう一方の日本能率連合会は,昭和2年設立以前から上野陽一を中心に民間主導型で能率普及活動が行われ,講演,研究会,出版はもちろん,企業診断や改善指導,とくに専門家養成も行い,各府県経済部商工課と密接に関係して全国的な組織をもっていたのである。
 したがって,この日本能率連合会と日本工業協会が,当時の日本の2大能率推進団体であり,“官の山下”と並んで“民の上野”といわれ高く評価されていた。
 つまり,この2大団体を統合するということは戦争中とはいえ実は大変なことで,政府も本腰を入れ,時の商工大臣岸信介と事務次官椎名悦三郎の強力な推進により,昭和17年3月日本能率協会が設立されることになる。

名誉会長商工大臣岸 信介
会長海軍造兵中将伍堂卓雄
副会長貴族院議員中山太一
副会長陸軍主計中将石川半三郎
理事長三菱商事森川覚三

 その他に,政官財界より現職大臣8名を含む73名という役員顧問を決めて大々的に発足したのである。
 山下興家は日立製作所取締役のまま常務理事として,堀米は理事として日本能率協会の伝統の底流を形成することになるが,運営は次第に森川覚三を中心に進められることになる。そして,上野陽一は評議員として関係するが,同年4月日本能率学校(現在の産業能率大学の前身)を創設し,能率に関する人材養成に主力を傾注することになる。
 なお,この山下,上野の両先達は,戦後ただちにGHQの要請で,日本の官吏制度の改革のために,国家公務員法による人事院(National Personal Authority)が創設されるが,その企画から運営のトップマネジメントとして,総裁となった浅井清とともに人事官に就任し,行政機構の人事管理という,もっとも難問に取り組むことになるが,これは,山下と上野の科学的管理や合理的業務改善,制度改善に対する見識と実践的業績が認められたことによるものである。

  • 参考文献
  • 「経営と共に」(日本能率協会, 1982),「IE今昔物語」(『IE』日本能率協会, 1969)
  • 元日本能率協会専務理事小野常雄口述(1986)

文中敬称略