日本の能率を築いた人びと

執筆者:社団法人日本能率協会常務理事 中嶋誉富(当時)
本記事は、1987年「JMAジャーナル」において連載されたものを編集して掲載しています。
記事中の役職名や数字などは当時の原稿どおりとしています。

山下興家 日本能率協会の伝統底流を築く 3

日本工業協会の設立と山下興家

 大正末期から昭和初期にかけての産業界の不況や,第1次世界大戦後のどん底の疲弊から立ち上がるドイツのめざましい産業復興の要因となった国家的産業合理化運動などに刺激され,さらに, 1929年(昭和4年)金解禁による世界恐慌は日本にも波及し,政府としても産業合理化,企業経営の科学化,能率運動の推進など合理化施策立案の総本部を政府部内に設置すべく,昭和5年6月商工省に臨時産業合理局を組織した。生産管理委員会,販売管理委員会,財務管理委員会が設けられたが,この生産管理委員会の委員長に山下興家が任命されるのである。
 これは山下の欧米における合理化に対する見識と,鉄道工場におけるめざましい業績によるものであることはいうまでもない。
 山下は,この委員会の中で,生産管理の改善推進を目的とする中央機関設立を,ドイツにならってその提案を行い,昭和6年4月商工省の外郭団体として,社団法人日本工業協会の設立を提案し,初代会長には時の商工大臣中島久萬吉が,実質的運営の責任を,副会長として国鉄在籍のまま山下興家が赴任することになった。
 この日本工業協会が,昭和17年3月日本能率連合会と合併統合して日本能率協会になる前進母体なのである。

 当時の工業協会の主な事業というのは,
(1)各府県工業協会の自主的な全国研究会開催(年2回)。
(2)軍・官営工場や民間先進工場の専門家によるテーマ別講演会研究会の開催。
(3)臨時産業合理局生産管理委員会の提言パンフレットの印刷配布,工業規格,資料,図書,機関誌などの発行。
(4)工場管理の短期・長期の改善指導(コンサルティング)。
(5)作業研究長期実習講習会(IE養成コース)。
(6)県単位の工場相互啓発のための見学会,横断的職場業務研究会の開催などの相互交流の促進。
(7)その他多様の活動
 などであった。

日本工業協会運営の特徴

 前述の日本工業協会の事業は,商工省の臨時産業合理局生産管理委員会の施策を,一般民間工場にまで普及定着させるためのものであったが,山下はの普及定着のためには資料配布や図書出版,講演研究会だけでは徹底しないと考えた。

・コンサルタントを自前で持つこと
 工業協会自体で,個別の会社工場の問題点を具体的に診断指摘し,改善を提案し,その実施を援助できる専門技術者(IE技術者,改善コンサルタント)を自前で持たねばならないと考え,自分が国鉄で養成した改善技術者2名をスカウトするのである。
 昭和9年に堀米建一,昭和10年には小野常雄に白羽の矢が立って入会するが,いずれも国鉄のピカ一の改善技術者であるとともに,その後の日本能率協会のコンサルティング事業や,他の事業との連携の上に重要な影響を果たすことになるのである。

・改善技術者養成と組織化
 工業協会自体で改善コンサルタント数名を内蔵したところで,この広い産業界にどれだけのことができるであろうか。
 それには,各会社工場が真に作業研究やIEの重要性と必要性を認識しその専門技術者を工場が自前で持つようにするために,実習を重視した長期の講習会を全国的に展開し,その専門家養成事業を大々的に進め,その卒業生を組織化することにより,全産業の管理水準の向上を図るという遠大な構想なのである。そして,昭和12年第1回が堀米建一を講師に行われ,福田勇,花田秀夫,新郷重夫,鈴木隆ほか多くの大先輩が生まれたのであるが,構想のようにはいかなかった。
 しかし,これは日本能率協会に受け継がれて生産技術者養成コース,さらにIE士養成コースとして数千名の卒業生を送り出している。

 コンサルタントの内蔵,改善技術者養成と組織化のいずれも,山下が国鉄の工場長,局長時代に鉄道工場で行った経験をもとに,工業協会で全国展開したものであるが,単なる能率屋ではなく,科学的態度で仕事の研究に取り組む,プロセス主義のIEer養成を目指していたので,この伝統・考え方は今も生きている。