日本の能率を築いた人びと

執筆者:社団法人日本能率協会常務理事 中嶋誉富(当時)
本記事は、1987年「JMAジャーナル」において連載されたものを編集して掲載しています。
記事中の役職名や数字などは当時の原稿どおりとしています。

山下興家 日本能率協会の伝統底流を築く 1

 日本能率界の3先達として,前号で述べた「軍の伍堂」と並んで,「官の山下」と呼ばれた山下興家がいる。
 そしてこの2人ともが,当時の大工場の革新を通じて日本能率協会の技術と伝統に重大な影響を与えたのである。

満鉄から国鉄にスカウトされる

 明治39年(1906年)東京帝国大学機械科を卒業するや直ぐに,日露戦争直後に日本が創設した南満州鉄道株式会社に奉職した。そして間もなく満鉄からアメリカに出張,アメリカの鉄道や工場の運営を研究して満州沙河口工場に戻って活躍した,当時のエリ-ト技師である。
 ちょうどこの頃アメリカでは,テーラーの科学的管理法が脚光を浴び,例の鉄道事件と称する鉄道運賃値上げにからんで鉄道各社に科学的管理法導入論争がおこった時期で,山下にも大きな影響を与えたものと思われる。一方,わが国では鉄道院総裁後藤進平の下で軌道の広軌狭軌の論争が進んでいた。
 そこで広軌についての知見ある有能な技師として山下は懇望されて国鉄にスカウトされ,国鉄大井工場に勤務し,やがて大井工場長,大宮工場長,本省の工場課長,機械課長,そして工作局長と歴任し,技術面でも,管理面でもめざましい業績を上げたのである。
 当時の鉄道事業は日本の工業化の進展にともなって急速に輸送量が増大しており,明治39年には国有化されて国家事業としての重きをなし,先端技術を駆使した総合工業になっていったのである。
 鉄道工場も主力8工場の他に15の修理工場を含む,従業員2万余名,専門学校卒業以上の技術者数百名という,当時の陸海軍工廠を除けば,わが国最大規模の陣容を誇る一流大工場だったのである。
 技術面では自動連結機の全面採用,機関車の蒸気から電気,さらに電車も直流から交流,車輛も木製から鉄製へ,鋳鉄から鋳鋼へ,リベットから溶接へ,さらに軸受もメタルからベアリングへと,機関車,貨車,客車,電車などの設計構造から工作加工法に至るまで,当時の急速な技術革新の影響を受けていたのである。
 この中で鉄道工作局は,機関車,貨車,客車などの新車設計および車輛修理を自ら担当し,新車の製作は民間会社に発注して技術的指導監督をしていたので,山下は国鉄の技術および工場管理の最高責任者として,とくに昭和3年から8年まで本省の工作局長を担当する。

修繕期間の圧倒的短縮で世界を驚かす

 昭和初期の車輛工場では輸送量の増加に伴って,とくに機関車の2年ごとの定期大修繕の台数が漸増していた。
 鉄道工場の主要な仕事は,修理という個別受注的仕事なので,日程短縮を主眼とする仕事の研究や工程管理の改善が重点的に行われていたが,これが昭和に入るや急速に進展して,従来1ヵ月以上もかかっていた修理期間が20日から10日間に,そして1週間に,さらには修理内容や機関車,客貨車の別なく修理期間ほとんど5日間という革新的成果を上げる。
 この修理在場日数を極限までに短縮したことによって,工作局側ではコストダウンはもちろんのこと職場床面積の拡張要求を抑え,運転局側として4年間の機関車車輛の実稼働率向上に多大な成果を上げ,当時の不況圧縮予算の中で,経営管理上革新的な新風を吹き込むことになるのだ。
 この成果は,昭和4年東京で行われた万国工業会議(International Industrial Conference)でも発表され国際的にも世界最高水準の評価を受けた。当時アメリカでも2週間かかっていたといわれ,参加したソ連の鉄道省から強く要請されて,2回までもモスクワに職員を派遣して,この修理期間短縮のマネジメントと技術の指導をすることになるのである。まさに山下マネジメントの成果であった。

自動連結機の一斉取り替えの大事業

 もう1つ世界的な革新がある。それは列車の連結装置の改良と,その一斉取り替えの大事業を短時日に実施完了させたことである。
 つまり,従来のスクリューによる旧式のものから,現在の自動式に改良し,それを全国一斉に,機関車,客貨車同時取り替え改造を,輸送力をなんら下げずに一気に完了させたもので,世界的にも有名な大事業である。
 これにより,連結作業に伴う死亡事故や多数の災害が急激になくなり,この成果の報告を要請されて,ジュネーブのILO会議で発表し講演することになるのが,昭和3年局長就任の年である。
 実はこのILO出席を機会に,山下は欧米を視察し,とくにアメリカにおける車輛修繕工場で個別受注生産的な修理作業に作業研究が行われていることに共感し,わが鉄道工場への今でいうIEの導入を決意する。