日本の能率を築いた人びと

執筆者:社団法人日本能率協会常務理事 中嶋誉富(当時)
本記事は、1987年「JMAジャーナル」において連載されたものを編集して掲載しています。
記事中の役職名や数字などは当時の原稿どおりとしています。

伍堂卓雄 日本能率協会の創立 1

 能率界に3先達あり。“軍の伍堂、官の山下、民の上野”といわれ、現在でも全日本能率連盟が世に贈る優秀論文賞に名を残す伍堂卓雄、山下興家、上野陽一の3人である。このうち伍堂、山下は、いずれも技術者として日本人ではじめて当時の工業先進国の工場管理を直接視察研究し、これをそれぞれ当時の日本の大工場であった呉海軍工廠、国鉄工作局工場に導入し、その経験をベースに日本産業界への普及に貢献した最初の人物であった。
 そしてこの2人が、日本能率協会創立前後の伝統と技術の上に、重要な役割と影響を与えたのである。
 この連載ではまず、伍堂卓雄を、次いで山下與家について、日本の経営管理技術に与えた影響や、その背景などを探ってみたい。

日本の経営管理技術

 日本の経営管理技術の歴史といえば、1910年(明治43年)、当時米国に急速に普及しはじめた科学的管理法を研究すべく渡米して、現地の280余の会社、工場、商店等を視察研究し、これを新聞に寄稿、帰国後単行本にまとめて1913年(大正2年1月)出版した『無益な手数を省く秘訣』(池田藤四郎)が最初である。そしてこの本は、わずか2年間に150版という当時の大ベストセラーになるのである。
 これと相前後して加島銀行取締役の星野行則が、欧米視察中の1911年(明治44年)に出版された、テーラーの『The Principle of Scientific Management』に出会い、その翻訳権を取得して帰国、直ちに翻訳出版した『学理的事業管理法』が1913年(大正2年)発行される。これはテーラーの科学的管理法を専門書としてわが国に紹介した最初のものである。
 従って、わずか約75年の歴史なのであるが、この大正の初期に能率運動という言葉が使われはじめ、これが、この科学的管理法の啓蒙普及運動になるのである。
 能率というRatioや、率そのものをうんぬんするものではなかったが、段々と請負作業の単価設定や、その制度としての作業効率や労働能率といった部分的概念に扱われてしまい、総合化されたマネジメント技術として扱われたことはそう多くはなかったのである。IEの正しい理解や適用についても同様であったといえる。
 このような時代に能率運動を経営管理技術として普及すべく、昭和の初期から、日本能率連合会や日本工業協会などの活動があったが、これを昭和17年当時の戦時挙国一致体制などの要請から、この2大団体を統合一本化して日本能率協会を創立 。日本産業界の経営管理水準を急速に向上させることを期待したのである。
 このときの初代日本能率協会会長が海軍造兵中将工学博士、元商工大臣伍堂卓雄である。