日本の能率を築いた人びと

執筆者:社団法人日本能率協会常務理事 中嶋誉富(当時)
本記事は、1987年「JMAジャーナル」において連載されたものを編集して掲載しています。
記事中の役職名や数字などは当時の原稿どおりとしています。

小野常雄 日本能率協会に脈うつその思想 4

小野の思想

 昭和30年5月,小野は日本能率協会の専務理事に就任し,コンサルティング事業以外の,教育,出版,および新事業や新組織体制の企画推進など,経営者として協会事業全般に関わる責任を負うことになる。
 なかでも昭和32年,森川理事長を団長とするトップ・マネジメント欧米視察団に参加して,終了後とくに単身で3M.CO.に1週間滞在し,コンサルタントとして,3Mの分権制と革新的風土づくりによるユニークな経営を研究した。これは当時のコンサルタントに経営の新風を吹き込むとともに,生産中心のコンサルティングからマーケティング,経営全体へのコンサルティングを志向することとなる。また,AMA(American Management Association)の事業内容とその運営を研究して,日本能率協会事業は,世界のJapan Management Association をめざすべく,これ以後JMAと呼びはじめるようになった。
 では,日本能率協会に流れる小野の思想をみてみよう。

● 組織化された職業的技術事業集団
 小野は,企業に本当に役立つ成果を上げるには,有機的に組織化された優れたプロ集団が生み出す技術と,信頼感と誠意ある努力が必要で,それには300〜500名といった組織集団が必要であると考えていた。しかし今,やっとその域に近づいてきたが,昨今の複雑多岐,かつ変化激動の経営をみるとき,「望道未見之」の思いである。

● MG一体化の考え方
 「よい成果はよい技術(G)が生み,よい技術はコンサルティング(M)の真剣勝負の現場から生まれる」,「われわれの技術は実践の現場から生まれ,実践により磨かれるので,MとGは一体不可分な“仕事と技術”の考え方なのである」
 これはコンサルティング活動のMと(技術活動)のGとは相互に補完し合うという小野の思想で,われわれ職業的組織人は,仕事についての成果の責任と,成果を生み出すプロセス技術の体系化,実用化の責任の2つを負わねばならないことをいっているのである。これはコンサルティングだけではなく,能率協会全事業に適用される考え方である。

● 情報に対する認識
 小野はコンサルタント人増員計画をすすめた昭和20年12月に,コンサルティング技術の研究,開発,普及,伝承を効果的にすすめるための情報相互交流の媒体として,『PSD』(Production Standard Data)の発刊を企画して,全員,にその作成を義務付け,自らその『PSD』第1号を書き下した。それには次のように書かれている。
 −−わが集団の目的行為は個々人の自由な発展と各人を貫く統合連帯の精神によって達成される。この『PSD』の作成は斬新陳腐,高邁幼稚を問わず,専ら組織の人と時代の有用性を主眼とすること。−−
 昭和55年には,この『PSD』が10,000号,数十万ページを突破したのを契機に,改題して『MCD』(Management Consulting Data)とした。その記念の10,001号に小野が一文を寄せている。
 一−時代が遷り,人の価値観が変わり,マネジメントの複雑性や困難性が増したにせよ,組織の内と外,技術と仕事,個人と組織を結ぶ「てだて」の重要性は今も昔も変わらない。いや今はもっと重要になっているはず。この『MCD』がその一端を果たすことを望んでやまない。−− 
 コンサルタント以外にも,同じ思想で『MID』(Management Innovation Data)が作成されている。

● 民主的運営と「さん」づけ
MG一体化のGに当たる部分で,全員がMG一体化の実を組織的にあげるためには,自由闊達な風土と討議雰囲気が必要で,参加メンバーは職位や先輩後輩,キャリアの差を問わず対等で差別感なく平等な発言ができるよう,いいたいことがいえるようにしなければならない。そのために小野は技術会議を全員合宿で行い,能率協会では何時もすべての人を,お互いに「さん」づけで呼び合うことを奨励し,自らも実践し通した。そしてその慣習は今も残っているが情報交流やコミュニケーションの重要な鍵となっている。

● 集団天才の志向
 難しい経営問題に取り組んで,本当に企業に役立つコンサルティングができなければ大増員計画は水泡に帰すことになる。
 本当に役立つコンサルティングは,個人では難しくても,それが集団として望ましく分業専門化され,コンサルティングするときに,これが有機的に協働しシナジー効果を発揮するようになれば,個人個人は平凡でも,集団としての能力は天才的に飛躍する。したがって,この集団志向が難しい経営問題にも立ち向かって,真に企業の期待に応える経営コンサルティングを実現させるはずと考えたのである。逆にいえば,難しい経営問題に立ち向かって真に役立つためには,個人的能力では限界がある。これを乗り越える技術的組織集団志向を小野は「集団天才」になろうといったのである。

今も日本の能率を見守る

 昭和38年,当時の経営責任を負って常務理事以上全員が辞任したとき,後の経営を森川会長に託して,小野は涙をのんで弁解1つせず日本能率協会を去った。
 小野は日本電気の小林宏治現会長とは戦時中から仕事で付き合っていて相互信頼の関係にあった。昭和17年,日本能率協会が創立して間もなく,海軍の要請で,当時日本電気に発注していた水中音響兵器の秘密工場の工場診断が行われたが,このときの工場長が小林現会長で,診断したのが小野常雄であった。日本電気と日本能率協会,小林と小野の最初の出会いなのである。
 昭和21年に戦後の工場復興の最高責任者になった小林現会長の要請で,日本能率協会が日本電気の工場コンサルティングに入ったときも,その調査責任者は小野であった。
 その後,小林日電会長には長年にわたり,日本能率協会の常任理事をお願いしているが,昭和39年,小林会長が社長就任時にインターナル・コンサルタントとして,日本電気に入社し,世界一をめざす小林社長の経営戦略を助けて活躍し,昭和45年日本電気の子会社として,産業システム研究所というコンサルティング会社を設立,専務取締役として活動する。昭和55年12月退任し,現在80歳になられるが日本能率協会顧問として日本の能率を見守っている。

  • 参考文献
  • 『経営と共に』日本能率協会
  • 『森川覚三の世界』日本能率協会
  • 『PSD』
  • 小野常雄口述

文中敬称略 (完)